2024-04-06(土)あますぎプロテイン、部分ツイートは詩
プロテインのお試し版が届いたので、筋トレ後に飲んでみた。甘い。たぶんホエイプロテインをそのまま飲むのはしんどいので甘くしてあるのだと思うが、雑に甘い。想定されているよりも半分くらいの濃度に薄めると飲みやすいので、まぁ飲めなくはない。
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部分ツイートの権威がインタビューを受けていた。
dailyportalz.jp
どういう部分ツイートがよいとされているかという話があった。たとえば「オートクチュールの特注の部分」は全体と部分が同じ意味になっている。他にも「人生経験のイケイケの部分」はメッセージ性がある。日頃から部分ツイートを見出している人の多くはこれらの基準に同意すると思う。
これを読んで、寺田寅彦の随筆にあった、詩とは対象と対象を結びつけるもので、作者の我を出すものではないという話を思い出した*1。部分ツイートも、全体と部分の結びつきの意外性や気づきにおもしろさがある。部分ツイートを文学に仕立て上げる人が出てきてほしいが、詩に比べると制約が大きすぎるのでむずかしそう。
2024-04-07(日)『Refind Self』をやった、楽譜を見ながら弾きたい
『Refind Self』というゲームをやった。アンドロイドになってドット絵の終末世界を徘徊し、そのなかで行なった選択によって性格診断をしてくれるゲーム。ドット絵がかわいいし BGM もよかった。性格は「賢者」だった。確率で得をするよりも確実に損をしない立ち回りをするという特徴があるらしい。言われてみれば最低ラインを回るようなムーブをしがちではある。「まだこのレベルは自分には早いな」と思ってためらってしまうことがあるのだ。しかしそういうケースのうちいくつかはハードルがあるように見えているだけだったりするので、もうちょっと挑戦してみるようにしてもよさそう。
3回プレイするとより深く診断できるらしいので、時間をあけてまたやりたい。
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ピアノと楽譜に関するツイート。
自分も楽譜をあまりすらすら読めないのでよくわかる。読みながら弾けないので全ての運指を覚えないといけないし、運指を忘れるともう弾けなくなってしまう。運指を忘れてもなんとなく指が覚えているので少し練習すればまた弾けるようにはなるのだが、ちょっと不便ではある。そういうわけで最近は新しい曲を覚えるときは楽譜を読むようにしている。しかし見た音符に対応する音をさっと押すのはなかなか難しく、こつこつ続けるしかなさそう。
2024-04-08(月)Bluesky で部分ツイート
最近 Bluesky を始めた。部分ツイートに関するフィードがあるらしいからである。Bluesky にはフィードという機能があって、検索条件に引っかかった投稿を垂れ流すタイムラインを作って公開することができるらしい。部分ツイートのフィードにはいくつもの部分ツイート*2が流れてくる。そのフィードを見つつ、たまに部分ツイートを思いついたら投稿している。最近の Twitter のように訳のわからないツイートを目に入れなくてよいので、素朴なインターネットを楽しめていい。
2024-04-09(火)椅子の高さ
昨日の夜はベッドでクネクネしていたら寝るのが遅くなってしまったので寝不足になってしまった。やっぱり十分な睡眠がないと頭が動かないしやる気も出ない。
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どうやら机に向かうときとピアノを弾くときでは、いい感じの椅子の高さが違うらしい。机に向かうときは数センチ低めがいいようだ。しかし机に向かうときもピアノを弾くときも同じ椅子を使っているので切り替えがめんどくさい。ピアノ用に椅子を買えばいいんだろうけどものが増えると掃除機がかけにくくなるので悩ましい。
2024-04-10(水)労働を減らそう
『近代の労働観』を読んだ。労働の喜びとか労働による自己実現といったイメージは近代の工業化以降に生まれたもので、本質的にはそんなものは存在しない。労働を縮小して、余暇を取り戻し、よりよく生きることについて公的空間で議論できるようにならなければならない、というのが雑なまとめ。最後のほうは著者も理想論であるとはしつつも、創造的な余暇を取り戻すことが究極の目標であるというのは同意できる。
さしあたっては労働時間を短くしないとどうしようもないわけだが、AI は労働時間を短くするだろうか。ある作業にかかる時間を短くするだろうが、資本家としてはそのぶん時間を減らしてやろうとはならない気がする。労働時間を固定して生産量を上げるようにするはずだ。そう考えると労働時間はどちらかというと法的な部分に制約がありそう。
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2024-04-11(木)
昨日の夜に花粉症の薬を飲み忘れたので朝起きたら鼻詰まりでつらかった。薬を飲んで散歩したらスッキリした。薬の製造と流通に関わるすべての人に感謝...
2024-04-12(金)本の書き込み、『構造と力』を読んだ、哲学に向き合いすぎない
図書館で本を見ていると、たまに書き込みがあったりする。図書館の本に線が引かれていたりメモがあったりしても気にしないし、むしろ以前に誰かがこの本を読んで何かを考えたんだという跡が見えてたのしい。しかしだからといって、自分の持ち物でない本に書き込みをするというのはよろしくない。そもそも本に書き込むのは嫌だという人はたくさんいると思うので、書き込みを正当化する方向でやっていくのは難しいだろう。だいたい、秩序がなければ便所の落書きみたいになるおそれもある。やっぱり書き込みはよくないということにしておこう。
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『構造と力』を読んだ。構造主義とポストモダンをいい感じに図式化する話。最後のほうに出てきた教室の比喩が気に入っている。2つの教室があり、いずれも子どもたちが自習している。第一の教室では先生が前から見張っており、第二の教室では先生がうしろから見ており、振り向くことは許されていないとする。一見すると第二の教室のほうが気楽そうだが、そうではない。第一の教室ではどこを見張っているかがわかるので、気を抜いたりふざけたりするタイミングを見つけることができる。休み時間もある。一方で、第二の教室では、ちょっとしたいたずらは黙認されるが、どこまで許されるのかわからない。見張られているかさえもわからない中で、子どもたちはだんだん、監督される視線を内面化していく。また、ある程度放任されているのだから休み時間もない。そうして教室はたえざる自主的相互競争の場になる。
ここで第二の教室は、現代社会の一面をモデル化している。自由ではあるのだが、何かに追われている感覚があり、なんとなく競争を強いられている。この本は1980年代に書かれた本だが、インターネットが普及したことを考慮に入れると、教室の黒板、あるいはそれぞれの机に他の人の進捗が絶えず通知されるという要素を追加してもいいかもしれない。
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思想とか哲学の本というのは、やっぱり考えても仕方のないことが書かれているのであり、精読というよりは乱読すべきものなのだということがうすうすわかってきた。哲学で食べていくのでなければ、こういう文章を精読するよりはピクニックに行ったほうがいいだろう。